note.126 SIDE:N
「ミノリさん!」
カタギリが倒れ、戦闘が終息したのを見て、マイスとユイリィがミノリへと駆け寄る。
対して、ミノリは興味もなさげに制服の懐から煙草を取り出して火をつける。
「あぁ、ちゃんと生きてたわね、高坂 大樹。褒めてあげるわ」
気だるげに煙を吐きつつ、何事もなかったかのような、いつもの不機嫌さで投げやりに言う。
マイスの後ろから、おずおずと顔を出したユイリィが問いかける。
「あ、あの……」
「何よ」
「ミノリ……さんって、その……学生さん……ですよね?」
「そうだけど? 何。あぁ、これ?」
ぶっきらぼうに、軽く掲げることで指に挟んだ煙草を示して、
「ただのミントシガレットよ。本物じゃないわ」
言って、ミノリはその煙を大きく吸い込むと、ユイリィの顔に煙を吹きかけた。
「きゃふっ!? ……あれ? 本当です」
不意打ちに面食らったユイリィだったが、その吐息は予想された咽かえるような副流煙ではなく、彼女の言う通り、爽やかなミントの香りだった。
「こんなの、ハーブティー飲んでるのと大差ないわ。それにあたし、本物の煙草は死ぬほど嫌いなの。リアルでラクトグレイスが使えるなら、吸う奴全員ぶち殺して回りたいぐらいよ」
考えることすら嫌なのか、苛立たしげに言い放つ。
「そ、そうですか……」
と、そこで何か思い当たるものがあったのか、ユイリィは「あれ? そう言えば……」と続けて、
「カジマさんはどこに行ったんですか?」
その疑問に、何故か呆れた三白眼になったミノリは、明後日に半眼を飛ばして、親指で自らの後ろを示す。
「あぁ、あのバカならそこよ」
言われて、彼女の向こう側をひょっこりと覗くと、そこには雪崩に巻き込まれて氷塊に閉じ込められたカジマの姿があった。
「わあぁぁぁカ、カジマさんっ!?」
ユイリィは慌てて駆け寄りかけて、訴える相手が違うことに気付いてミノリに向き直る。
「あわわわわ、一緒に凍っちゃってますよミノリさんっ!? ととと溶かしてあげないと! マイスさんっ!?」
わちゃわちゃとパニクるユイリィだったが、ミノリの視線は明後日から帰らず、それどころかマイスですら、生ぬるい視線を送るばかりだった。
「は〜……」と、半ば以上の溜息と共に煙を吐き出したミノリは、呆れ声で言い投げる。
「……カ〜ジマ〜、その辺にしといてやったらぁ?」
その声に一拍間をおいて、背後の氷塊からクツクツと笑い声が漏れ出した。
「ふぇ……?」
笑い声にびくりとして、ゆっくりとユイリィが振り向くと、氷塊の中のカジマの身体が透けるように消えてしまう。
が、カジマの笑い声だけは止まらずに氷塊から響いていた。
「クックック……」
堪えきれないといった調子で笑い声を大きくしながら、氷塊はもぞもぞと動き出し、大雑把に人型を形作る。
そこからまるでアルミ缶を少しずつ潰していくように、あちこちをベコベコと凹ませるようにして元のカジマの大きさと造形を取り戻していく。
そうして、完全に元通りのカジマの形になったところで、満面のドヤ顔になった氷塊は、両腕で力こぶを作ったポーズで本来の人肌と服装に変換された。
「ナーッハッハー! オレ様、復☆活☆ミ」
その様子をポカーンとした顔で見ているしかできなかったユイリィだったが、数秒かけて状況を理解したところで、怒り半分恥ずかしさ半分でその顔が真っ赤に染まっていく。
「もぉぉ〜〜〜〜〜〜! カジマさぁん!! 私、ホントの本気で心配したんですからね!?」
彼女なりの精一杯の怒り表現なのか、ユイリィは涙目になりながらも駄々っ子のようにポカポカと両腕を振り回してカジマの胸板を叩く。
「ナハハ、すまんすまん! いや、このネタでここまでいい反応もらえたのも久々だったから、ついやりすぎちまった、ガハハハッ!」
カジマもさすがに悪いと思ったか、後頭部を掻きながら、しばらくされるがままに甘んじていた。
一通り癇癪が収まったところで、ガックリと肩を落としたユイリィは、今度はまだ少し涙を溜めたジト目で、恨みがましい視線を後ろの二人に向ける。
「うぅ〜〜〜〜〜〜! お二人とも知っててずっと黙ってましたねぇ!?」
「あはは……僕も昔このネタやられたなぁって思ったら懐かしくって……」
「馬鹿馬鹿しくって言う気にもならなかっただけよ」
マイスは苦笑気味に、ミノリは大分短くなった煙草を足で踏み消しながら、それぞれ答える。
「むぅぅ〜〜〜!」と頬を膨らませたユイリィは、腕組みしつつ、
「もぅ、みんな知りませんっ!」
三人全員から背を向けるようにそっぽを向いてしまった。
「あはは、ごめんってば」
「いや、すまんすまん」
と、男二人は宥めにかかり、ミノリはやれやれと我関せずで2本目のミントシガレットに火を点す。
そうして、なんとかユイリィの機嫌を直したところで、カジマが真面目なトーンで話を切り替えた。
「さて、しかし、連中にこの場所が既にバレてるとなると、ちぃと不味いな」
「そうね。『北』の馬鹿共がここ最近になって急に研究所辺りでコソコソ何かしだしてたのは、どうせ連中に唆されて研究所から何か使えそうなデータでも盗ってこれないか探ってたってところでしょ。馬鹿共が何処まで侵入経路を漏らしたか知らないけど、連中がこんなにも早くピンポイントに能力持ちの使徒を用意して送り込めたのは、アドリブで追ってきたんじゃなくて、最初っからこのジッパチの存在を知ってて既に使徒を潜り込ませてあったからだわ」
「あぁ、だろうな。あー……とりあえず、今後の事の前に、今急ぎでできる対策を先にやっちまおう。どのみち、この事はアイツにも伝えておいた方がいいだろうしな」
カジマは全員に見えるパブリックモードでARウィンドウを呼び出すと、何処かへと通話をかける。
半透明の画面に呼び出し中のアイコンとシステムメッセージが表示された後、程なく応答した画面に映し出されたのは、自室で机に向かっているところだったと思しき小柄な少年だった。
下ろせば肩につくかどうかぐらいだろう長さを後ろで小さく結わえた黒髪に、肌色と呼ぶには濃く、小麦色と呼ぶにはいささか薄い程度にわずかに日焼けした健康的な肌が活発な印象を与える。
はっきりした顔立ちは育てば将来はイケメンと呼ばれる分類になるだろう素養を感じさせつつも、まだまだ幼さの残る童顔で、第一印象としてはどちらかと言えば「可愛い」という感想の方が多いだろう。
左胸にサーキットラインでメーカーのものらしきロゴの入った赤いフード付きのトレーナー姿も含めて、全体の印象としてはせいぜい小学校の中〜高学年程度、というところだ。
「はいはい親分? どうしたっスか?」
軽い調子で答えたその声音も、その印象から予想できる範囲であろう、快活さを感じさせるボーイソプラノだった。
「おぅ。ちっと今いいか? 緊急の案件だ」
「了解っス。ちょっと待ってくださいっスよ〜」
と、少年が立ち上がると、それに動きを合わせるように、彼を映していたARウィンドウが、少し高度を上げつつ、上を向いて地面と平行な水平方向に倒れてしまう。
その動作にユイリィが疑問を呈するよりも前に、ウィンドウはわずかに拡大しつつ回転しながら地面へと降りていく。
すると、その途中からウィンドウが本当の窓枠になったかのように、少年の頭がウィンドウから顔を出す。
ウィンドウが下降するに従って、肩口、胴体……と姿を見せる少年の身体は、ついにウィンドウが地面へと到達して、そのまま消去されたことで、完全に露わとなった。
いつの間にアバターを変更したのか、少年の髪の色はカーキ色に近い、濃い深緑色に変わっており、鼻筋には横一線にバンテージが貼られていて、快活さを増して、やんちゃないたずらっ子のような印象を与えていた。
先程見えていなかった下半身は、濃い目のベージュ色のカーゴパンツに、素履きの赤いスニーカー。
ウィンドウ越しの胸元までの段階ではメーカーロゴ以外は赤地一色かと思われたトレーナーは、腰回りと手首より少し上の袖回りに白地の太いラインが入っているデザインだった。
淡く周期的な発光を繰り返すその白地部分はどうやらサーキットラインで構成されているらしく、その占有面積相応の、かなりの処理能力を持っているだろうことが予想できた。
「ありゃりゃ、ミノリの姐さんにマイスの兄貴まで。皆さんお揃いとは、よっぽどっスね。……あれ? そっちのおねーさんはどちらさんっスか?」
少年の疑問に、まずはカジマが答えた。
「そうだな、先に紹介からやっとくか。この嬢ちゃんはユイリィ。ちっと訳あって、今日からジッパチで預かることになった能力者だ。んで、こっちの坊主はディッキーってんだ。こう見えて、オレの知る限りじゃプログラミングとハッキングに関しちゃ大人でも右に出る奴ぁいねぇ。一種の天才ってやつだな。このジッパチのセキュリティ方面の関連は全部コイツに任せてある」
「はじめましてっ! ユイリィって言います。よろしくお願いしますっ」
「なんか改めて他人からそう言われると照れちゃうっスね。オイラはディッキーっス。よろしくっスよ〜」
自己紹介とお互いに握手を交わしたところで、カジマが話を戻す。
「んで、だ。ディッキー、『北』のバックドアを今すぐ封鎖しろ、残らず全部だ」
「えぇっ!? ぜ、全部っスか? そいつぁ穏やかじゃないっスね。まぁやっとくっスけど……。一体何があったんスか?」
聞き返しつつも、ディッキーは周囲に無数のウィンドウとARキーボードを展開し、指の動きの描画に処理落ちすら発生しそうな程の、恐ろしい速度で作業を開始していた。
その作業スピードを物語るように、彼の纏う白地のサーキットラインがその発光を強くする。
「『北』の連中が、ラクトグレイス戦力欲しさにニューズを引き入れやがった」
「えぇぇ!? それっていろいろマズくないっスか!?」
「あぁ。既にさっき能力持ちの使徒を送り込まれた」
「ま、『北』の馬鹿共も一緒に雁首揃えて殴り込みにきてくれたから、使徒もまとめて全員デリートしてやったけどね」
と、カジマの説明にミノリが付け加える。
「ははぁ〜……さすがは姐さんっス……」
「んで、『北』の連中が奴らにどの経路を教えたかわからねぇから、『北』の全部のバックドアを封鎖しちまうのが一番手っ取り早いってこった。連中全員デリートされちまったから、そもそも『北』の出入口自体、もはや開けてる必要ねぇしな」
「なるほどっス。……ほいっと、『北』のバックドアの全封鎖完了っスよ〜。ついでに、『北』を閉じる前提で、ジッパチ全体のセキュリティを強化しておいたっス」
「おう、さすが、察しが早くて助かるぜ。ついでにそれも頼むつもりだったんだ」
「任せてくださいっス、抜かりはないっスよ〜」
ここまでのわずかな会話の時間という、驚くべき速度で作業を完了させたディッキーは、ウィンドウを全て消去すると、自信ありげに鼻の頭を指で拭った。
「ところで、なんでニューズの連中は『北』のヤツらを引き入れてまで、こんな片田舎アングラに乗り込んできたんスか?」
「それがどうも、嬢ちゃんのラクトグレイスが目当てらしい」
「嬢ちゃん……つまりユイリィさんの、っスか?」
「あぁ。見せてやれるか?」
「あ、はいっ!」
問われて、答えたユイリィは、キョロキョロと辺りを見回してから、
「そうですねぇ。今なら……えいっ」
掛け声と共に、地面をピシッと指差す。
それに呼応して、彼女の目の前には[ログ取得:地形データ]の文字と、30分ほど前の時刻が表示されたARウィンドウが現れて、同時に足元の更地全体から地面のテクスチャーが消えて、真っ黒い空間に緑色のワイヤーメッシュで構成されたポリゴンデータになる。
「うわっちゃ!?」
突然の変化に、思わずディッキーが跳び上がったのも束の間、次の瞬間には、更地一帯は、先程までの戦闘の開始前の、足跡1つない雪景色の状態に戻っていた。
「こいつは……確かにすげぇっスね……。ちょっとこれ見てくださいっス」
ディッキーは、ARウィンドウを呼び出して、いくつか操作を加えると、現れた1枚のウィンドウを示す。
「見た目だけじゃなくて、ネットワークログを見ても確かにタイムスタンプが巻き戻されてるっス。他に一切の影響を与えずに、周りとの整合性も勝手に補完して、指定した要素だけをピンポイントでロールバックしてるっス。これがラクトグレイスとして無制限に使えちゃうってのは、破格もいいところっスよ。ヤツらが狙うのも納得っス」
「あぁ。連中、どっからか嬢ちゃんの事を嗅ぎ付けて、どうやら目の敵にしてるらしい。嬢ちゃんのことを『異端の魔女』なんて呼び方してたしな」
「ははぁ、そりゃまた……おりゃ?」
「どうした?」
ログの中に何かを見つけたディッキーは、不意に空を仰ぎ、中空の一点を睨み付ける。
かと思えば、すぐさまARキーボードを呼び出して、再び目まぐるしく、いくつもの操作を加えていく。
「いつからかわかんないっスけど、ヤツら、オイラたちのことを覗き見してたみたいっスよ」
「何!? 何処からそんなん……!」
「上空の指定地点に仮想の定点カメラを置くみたいにして、そこから見える視覚情報だけを抜き取ってたみたいっス。このオイラに今の今まで全く気付かせないなんて……ニューズの連中、思ったよりやってくれるっスね……!」
そう話す間にも、ディッキーの周囲にはいくつものウィンドウが現れては消えていく。
そうして、最後にエンターキーが押下されたところで、キーボードを含めて全てのウィンドウが消え去った。
「これでよしっと……今度こそバッチリっスよ〜。接続IPと、侵入経路、それと類似のセキュリティホール、プログラムのコードパターン、全てブロックできたので、もう同じ手口は二度と使えないはずっス」
「よぅし、でかしたぞ」
今できる対策は全て施せたと見て、カジマは話を戻す。
「しっかし、そうまでして探りを入れてくるとはな。連中、よっぽど嬢ちゃんの能力が憎いらしい」
「みたいっスねぇ。それで、これからどうするんスか? ニューズが相手じゃ、一筋縄じゃいかないっスよ」
「そうだな」
カジマは腕を組んで唸る。
「連中の狙いは嬢ちゃんだ。そんで、さっきの戦いの最初から見られてたとすると、送った刺客は返り討ちで、嬢ちゃんはこのジッパチでオレらの手の内にあるってことまで、既に奴らにゃ筒抜けってわけだ」
「オイラでも気づけないような監視の目を潜らせてくるようなハッカーがあっちにもいるとすれば、このジッパチのセキュリティも万全とは言い難いっスね……。もちろん、オイラも可能な限りの対策はするつもりっスけど……多分いたちごっこっスね〜……。正直アテになれるかは微妙なところっス」
「つーとまぁ、いずれまた連中から刺客が送られてくるのは時間の問題ってわけだ」
「だったら、話は早いわね」
ミノリが話に割って入る。
「どうせ避けられないなら、いっそこっちから仕掛けるべきよ」
「ちょちょちょ、ちょいちょい、姐さん!? 自分で何言ってるかわかってるっスか!? 相手はあのニューズっスよ!?」
ルール・オブ・ニューズ――と言えば、その名は裏世界のみならず、一般大衆にすら過激派テロ組織として知れ渡っている、最大のラクトグレイス勢力。
慌てふためくディッキーだったが、ミノリは取り合わなかった。
「どうせ結果が同じなら、殴り込んで一矢報いてやる方がまだマシよ。それ以前に、誰が相手であろうが、あたしは負けるつもりは一切ないわ」
「ヘッ、そりゃそうだな。禍根は元から絶つのが一番だ。連中に一泡吹かせる……いいや、違うな。オレらで連中を叩きのめしてやるぐらいでちょうどいい」
ミノリの言に、カジマも同意する。
更に二人に同調したのは、意外にもユイリィ本人だった。
「私も、いつ来るかもわからない相手にずっと怯えっぱなしなんて嫌ですっ! それに、私、知りたいんです。私が本当は誰で、どうしてこんな力が与えられたのか。そのためにも、ただ引き籠り続けるわけにはいきませんっ」
となれば当然、マイスの答えも決まっていた。
「ユイリィさん自身がそう決めたのなら、僕が反対する理由はないかな。僕だって、いつまでもビクビクしっぱなしは、嫌だ」
そうして、全員ミノリに賛同したとなれば、及び腰だったディッキーも折れざるを得なかった。
「わかったっスよぉ、わかりましたー。オイラだってやってやるっスよ! まぁ、実際正直言えば、オイラは今のこの遠堺とジッパチが大好きっス。だから、この街がいつ襲われるかもわからずに怯えなきゃいけないような息苦しい場所になるぐらいなら、オイラだって闘ってやるっス!」
「ぃよぅし、決まりだな!」
バシリと拳で平手を叩いて、カジマが話をまとめる。
「やるこたぁ決まった。っつっても、今日は一旦解散だな。何しろ、連中はとにかくデカい。尻尾を掴むにゃ、スマートじゃなきゃ返り討ちだ。殴り込むにもどっから手ぇつけたもんだか、ちっとばっかし情報が足りねぇ」
「そこはあんたとディッキーの仕事でしょ、『情報屋』。任せとくわよ」
「おうよ。こいつぁちぃと忙しくなるぞ、ディッキー!」
「わかってるっスよ、親分。ジッパチの平和のためにも、手抜きは一切なしっスよ〜!」
と、話が落ち着きかけたところで、ユイリィが控えめに挙手する。
「あ、あの……それで、私の宿の話は結局どうすれば……?」
その問いに、全員がぴたりと動きを止めて互いの顔を見合わせた。
「あー……そういやぁ、そもそもここに来たのはその話が目的だったな」
「えーっと……どゆことっスか、親分?」
「やー、それがな、嬢ちゃんどうやらラクトグレイスの代わりに記憶を失くしちまってるらしくてな。連中の件もあって、どっかで匿ってやらなきゃいけないんだが、ま、オレが預かるよりゃ、女の子同士、ミノリと一緒のがいいんじゃねぇかと思ってな」
その台詞に続けるようにして、ミノリは今日一番の溜息を吐き出して、短くなりすぎたミントシガレットを適当に捨てると、行儀悪く足で踏み消した。
「はぁ〜〜〜……。――ったく、仕方ないわね。この状況であたしが拒否れる選択肢なんて、もう残ってるわけないじゃない」
「……! それじゃあ……!」
「わかったわよ。もう勝手にすればいいじゃない」
その口調は半ば敗北宣言といったぶっきらぼうなものだったが、それでもユイリィの顔はたちまちに綻んだ。
「わぁ……! ありがとうございますっ! えと、それじゃあ、お世話になります。よろしくお願いしますねっ」
「あー……はいはい」
深々と頭を下げるユイリィだったが、ミノリはと言えば、そちらには見向きもせず、追い払うようにして手を振るだけだった。
「……ったく、んじゃ、さっさと帰るわよ」
心底からやれやれと頭を振ったミノリは、それだけ告げると、スタスタと家路を歩き出してしまう。
その背中に「はいっ」と元気に答えたユイリィは、その後ろを駆けだしかけて、はたと気付いたように、マイスたちに向き直って。
「マイスさん、カジマさん、ディッキーさん、今日は本当にありがとうございました。えっと……これから、よろしくお願いします! それじゃあ、また!」
「うん、またね」
「おう、またなー、嬢ちゃん」
「お疲れっスよ〜」
もう一度お辞儀をしてから、三人に手を振って、今度こそミノリの下へ駆けだしたユイリィの背中を見送りながら、思わず零したような調子でカジマは呟いた。
「いい子だよなぁ、嬢ちゃん」
「ホントっスね〜。オイラが言うのもアレっスけど、今時じゃ珍しいぐらいのいい子っス」
「や、そりゃオメーがマセすぎなだけだよ」
「ち、違うっスぅ〜、オイラはマセてるんじゃないっスぅ〜、ただほんのちょっと多めに場数を踏んでるだけっスぅ〜」
「そもそもにして世間一般の小学生から『場数を踏む』なんて言い回しは出てこねぇんだよ、このマセガキが」
「う……そ、そこはもうほっといてくださいっス……」
大体いつも通りのやり取りに苦笑しつつ、マイスも解散を切り出す。
「あはは……それじゃあ、僕も今日のところは帰ります」
「おう、何か調べがついたらお前にも連絡するぜ。まぁそれ抜きにしても、今まで通りのミノリの奴の面倒ついでにでも、嬢ちゃんには顔出してやんな。お前が傍にいてやった方が、きっと嬢ちゃんのためにもなる」
「はい。その時はよろしくお願いします。それじゃ、失礼します」
「お疲れ〜ぃ」
「乙っスよ、兄貴〜」
そうして、マイスも自ら専用のバックドアに設定してある自宅への帰路へとついたのだった。
――同時刻。
それは、ただ薄暗い空間だった。
周囲に窓の類もないので、場所が何処かも定かではない。
逆に言えば、「窓の類が存在しない」ことで、とりあえずそこが何処かしらの密室であることだけは判別できた。
その部屋の中で、現在唯一の光源となって周囲を薄明るく照らしていたのは、1枚のARウィンドウだった。
ウィンドウの光は、どうやら部屋には長机が置かれており、その上座に座る一人の青年がウィンドウを見つめる主であるらしいことを、ぼんやりと照らし出していた。
ARウィンドウ1枚の頼りない光では部屋の反対側までは見通せず、長机に何人が着くことができるのかまではわからなかったが、青年の他に席に着いている者は今はいないようだ。
ウィンドウに映るのは、どこかの地上を真上から見下ろした俯瞰視点。
その中で今、巨大な氷山が弾け飛ぶように砕け散り、そこに閉じ込められていた何かがエラーメッセージを残してデリートされる。
その途端に、
「なぁあああああぁぁぁああああああああぁぁぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!! クソがあああああああっ! クソが! クソッ!! っんのクソゴミがあああっ!!!」
まるで聞き分けのない子供の癇癪のように、青年が激昂する。
拳は机を割らんばかりに、足は床を踏み抜かんばかりに叩き付けられ――というより、長机は実際に天板が叩き割られ、脚が折れて割れた天板が床へ落ちて、挙句に青年が立ち上がって、辛うじて形を成していた残骸まで執拗に踏み抜いて、完膚なきまでに粉砕する。
長机の半分であったものが意味を成さない木片と成り果て、踏みつけるものが床しかなくなった段階に至り、ようやく癇癪を収めた青年は、鼻息も荒いままにどっかと椅子へと腰を下ろす。
手足を投げ出して、数回深呼吸してようやく息を整えて、改めて座り直した青年は、ほんの数秒前までの発狂っぷりなどなかったかのような冷静さで誰もいない空間にポツリと呟く。
「やはり、所詮『権勢』程度ではお話にもならないか。フ、まぁいいさ」
ふとARウィンドウに目を向け直せば、氷山が消えて何処かの雪原らしい光景に戻った画面の先で、集まって何か会話を交わす数人の男女の様子を、上空から見下ろす視点で映していた。
集団はどうやら、1枚のARウィンドウを囲んで、その内容について議論しているらしい。
と、不意に、その内の一人、おそらく最年少であろう、赤いトレーナーの少年が、画面越しであるはずのこちら側をはっきりと睨み付けたかと思えば、彼の周囲に一瞬にして無数のARウィンドウが展開された光景を最後に、プツリと映像が途切れてブラックアウトする。
それきり、完全に沈黙してしまったモニターに、青年は一瞬、驚き半分、感心半分といった顔をみせたように見えたが、モニターが消されて、室内から光源が失われたことで、その表情を読み取ることはできなくなった。
「へぇ。我が『神の瞳』を見抜くか。それに、ほほぅ? 素晴らしい。あの一瞬で、接続IP、セキュリティホール、『神の瞳』のコードシグネチャー、三重の防壁を構築している。……まぁ、私にとっては全て意味のないものだけど」
過剰なまでに演技がかっているようで、聞く相手を諭すかのような、説得力があるようで、煙に巻かれるような、掴みどころのない、一言で言い表すなら「胡散臭い」としか言いようのない語り口だった。
「全く、この世界唯一の全知全能たるこの私に逆らうなど、万死に値するね。……と、言いたいところだけど、必要な情報は既に得た。今回は君たちに花を持たせてあげようじゃないか。何。神というものは、時には寛大なる慈悲も必要なものだからね」
暗闇の中、ゆらりと青年の瞳に光が宿り、どうやら体勢を変えたらしい彼の動きに合わせて光跡を残す。
「ようやくだ……ようやく見つけた。アレは私のものだ。私だけのものだ! それをあのクズ共め、無駄な悪足掻きで14年もずらしやがって!」
再び湧き上がる怒りを、而して届く範囲にこれ以上当たれる物もなかった故か、今一度の深呼吸で静める。
「まぁ、構わないよ。どのみち、向こうの準備もまだ整っていないからね。やろうと思えば、今すぐにでも指先一つ――」
青年がパチンと指を鳴らす。
すると、ブラウン管モニターを切ったように、ブツン、という音と一瞬の光を残して、青年の姿は室内から完全に掻き消えて。
同時に、粉々になった長机も、画面を切り替えたかのように何の動作もなく一瞬で元通りに戻り、部屋に静寂が戻る。
そうして、誰もいなくなったはずの部屋の中に、青年の声だけが不気味に響き渡る。
「――だけど、それもつまらない話だよね。来るべき『審判の日』まで、せいぜい余興として楽しませてもらうとしよう」