note.008 SIDE:R
帰宅後。
すぐに自室に籠って、ラフな部屋着に着替えた僕は、通学鞄から、手のひら大ほどの、1ヵ所に半球状のレンズが飛び出たカメラのついた、球体型のデバイス――「ゼウスギア」を取り出す。
フルダイブシステムによる仮想空間ネットワークにアクセスするための、バイザー型デバイスだ。
形状記憶素材によって、普段はこんな風に、球体型に小さくまとめて持ち運ぶことができる。
半球状に飛び出たカメラは、展開するとちょうど真正面に来る位置に配置されていて、これによって、フルダイブ中の事実上意識のない状態での外部の危険を検知したり、ダイブ中やバイザーをつけたままの状態でも外部の様子を確認したりできるようになっている。
授業でも、理科の実験をシミュレーションで済ませたり、ローカルサーバーに世界遺産だとか歴史上の史跡なんかのVRデータをロードして「実地」で授業したり、みたいな使い方で取り入れられてるから、普段から学校にも持ち歩いているんだよね。
時刻は14時25分……ちょっと早いけど、まぁちょうどいいかな。
ゼウスギアを装着して、楽な姿勢でベッドに横たわる。
バイザーの右耳の後ろ辺りにある電源スイッチを入れれば、前時代のディスク媒体が回り出した時のような、キュゥゥ――……ンという音と共に、真っ暗な視界に小さく赤いフォントで[STAND BY]と文字が浮かび上がって、ボイスコマンドのスタンバイ状態が起動する。
「ログオン・レイヤードモード」
レイヤードネット接続のためのボイスコマンドが認識されると、赤い[STAND BY]表示が緑色の[LOG-ON MODE:LAYERED]に変わると同時に、視界が開けてから、ログオンの表示は数回点滅して消える。
一見すると、さっきベッドに寝転んだそのままの視界を映しただけの部屋の天井が見えているだけだけど、既に脳から身体に伝わるはずの信号はゼウスギアによって全て割り込まれて、僕の意識はAR情報として投影されているアバターに移った状態になっているはずだ。
とりあえず起き上がって、今まで寝ていたベッドを見れば、そこには最初に寝そべった時の姿勢そのままの形をした薄青いマネキンのような人型が置かれていた。
レイヤードネットは要するに、「自分自身がAR情報になって、ネット経由でリアルにアクセスしている」状態だ。
接続直後は当然、自分が元居た位置から始まるわけで。
そうすると、元居た位置にそのまま存在する本来の自分の身体を、アバターとして外から見るっていう……言ってしまえば、幽体離脱みたいな光景から始まることになるんだよね。
これがまぁ、結構なんというか、気持ち悪いんだよねぇ、感覚的に……。
なんというか、自分が自分じゃなくなったような気分になるというか……。
これを気持ち悪いと感じる人は多いようで、精神的負担の軽減のために、レイヤード接続中の自分の身体はこんな風に、体型の輪郭だけをなぞって身体的特徴を全て消去した、青いマネキンみたいなテクスチャで覆われるようになっている。
さて、と。
システムメニューを開いて、アバターの見た目に適当に私服をセットする。
こういうところはほとんどゲーム感覚だよね。
便利な時代だなぁ、とはつくづく思う。
一応、鏡で確認はするけど、まぁ、特に考えずに普段から使っている私服のプリセットの1つをそのまま適用しただけだから、別にどうということもないね。
もう一度システムメニューを開いて、「アドレス」メニューから「ブックマーク」を呼び出す。
これだけ見るとまるでテキストベースのインターネット時代みたいなコマンドだけど、話は簡単だ。
レイヤードもワイヤードも、AR情報ネットワークを基にしてリアル世界を完全再現してるわけだから、経度と緯度を使って座標が一意に定められるんだよね。
この経度と緯度をそのまま並べた数字が「IPアドレス」の役割を果たしていて、例えば「35.40.34.4:N139.44.48.5:E」とアドレスバーに打ち込むと国会議事堂前に出たりする。
で、地名や住所を「URL」とすることで、特定の地点に楽にアクセスできるわけだ。
今回はブックマークから待ち合わせ場所にした「遠堺駅前公園南口」を選ぶ。
瞬間、周囲の景色がほんの一瞬のホワイトアウトを挟んで、指定先の駅前公園へとワープした。
駅前公園はそのまま、「遠堺駅前公園」という名前の、文字通り遠堺駅の北口駅前すぐに広がる公園だ。
まぁ、この手の公園としては珍しくなく、街路樹の並木道やら、広い芝生のスペースやら、待ち合わせにちょうどいい、時計が置かれた広場や、噴水やら誰の作品かもわからないような謎のオブジェがあったりと、観光スポットとしては特にこれといって目立つものもないけど、遠堺の市民にとっては定番の憩いの場になっている。
芝生の広場を横切る遊歩道の街路樹は桜なので、春先にはちょっとしたお花見スポットになったりする。
今回選んだ南口は、正面がすぐに遠堺駅の北口になっていることもあって、駅を出た位置からすぐ見える場所に時計があって、それを目印とした待ち合わせ場所として使われることが多い定番スポットの1つだ。
軽く周りを見回すと、すぐに私服姿の小倉君が目に留まる。
「やぁ、来たね」
「あ、小倉君。早いね」
「何、僕も来て1分経ってないさ」
そこへ、九条君と塚本さんもほとんど同時にシフトしてきた。
「おぅ、全員揃ってんな」
「やほー」
九条君は私服に着替えてたけど、塚本さんは学校の制服姿のままだった。
まぁ、うちの学校の制服、可愛いからね。
南高は私立で、割と自由な校風をウリにしてるので、私服登校OKになってるんだけど、指定の制服が可愛いことも女子を中心に評判で、制服の着用率は6割ぐらいと結構高いんだよね。
今の塚本さんみたいに、普段から私服代わりに常用してしまっている人も多いぐらいだ。
遠堺には南高の他にもう一つ、境山を挟んで「C」の字のちょうど反対側に、通称「北高」と呼ばれる、公立の「遠堺高校」があるんだけど、そっちは公立だけあって、全体的に堅苦しさが漂ってるんだよね。
制服も特に捻りもない学ランと地味な色合いのセーラー服だし。
その辺もあって、本来なら北高の方が近いはずの市内北部に住んでる人でも、山を迂回するバスをわざわざ使って南高に通っている人も多い。
ボタンに沿った飾りフリルと、広がった袖口にもフリルのついた白地のブラウスに、正面を茶色の紐で編み上げて閉じる、胸を強調するように胸のすぐ下から吊る形のコルセット風の明るいベージュのボディス。
ジャケットに近い丈の鮮やかな赤のボレロは、前は大きく開きつつ首元で留めるタイプで、肩口は外側に大きく張り出したランタンスリーブと呼ばれる型で、張り出した部分には、繊維として布地に編み込める回路素子「ナノプロセッサーカーボン」で構成されるウェアラブルデバイス「サーキットライン」によって、着用中だけ発光して浮かび上がる校章が縫いこまれている。
そして、袖口から肘の少し下、下腕部の外側3分の2ぐらいまで深く切り込みが入っていて、切り込み部分は黒い紐でゆるく編み上げが入っていることで、ブラウスに合わせて袖口が広がっている。
その袖口は返し袖になっていて、裏地は黒に、細い金色の縁取りがされている。
スカートはボレロと同じ赤地に黒のタータンチェックのフレアスカートで、内側に白地のスカートがもう1枚と、更に内側に白いレース地のフリルが重ねられた三重構造になっていて、その三重構造故に、自然とふんわり広がったシルエットを形作っていて、側面はボレロと同じく深く切り込まれて編み上げで留められているので、下の2枚目の白地が見えるようになっている。
加えて、首元には赤地の中央に黒のストライプが1本通ったレースのリボンがつく。
全体的に赤・白・ベージュの明るい色合いでまとまっていて、そこかしこのフリルでふりっふりのふわっふわなんだよね。
ひたすら地味で堅苦しい北高と比べてしまうと、人気になるのもむべなるかなというところだ。
塚本さんのライトブラウンのロングヘアにもよく似合っていると思う。
ちなみに、このボレロは夏服で、冬服は藍色に近い紺色のブレザーになる。
ブレザーの方はそれほど凝った装飾はないものの、肩口の校章型サーキットラインと、ブラウスに合わせて下腕部の袖が広がるように赤い紐で編み上げ留めされた切り込みに、折り返されて裏地の臙脂色に金の縁取りが見える袖口のデザインは共通だ。
「んじゃ、早速行こうぜ。……で、どっち行きゃいいんだ? 高坂」
「案内するよ。ついてきて」
さて、ひとまず僕の先導で、駅前の道を東へ向かう。
駅の北口を東に向かうと、市役所と警察署を中心とした、通称「行政区」と呼ばれるエリアだ。
市役所と警察署の他は、小さな企業のオフィスなんかが詰まった雑居ビルだとか、ちょっと怪しげな歓楽街じみた通りだとか……この遠堺の中では比較的背の高い建物が集中しているエリアで、ビルの乱立によって雑多に入り組んだ場所が多い。
まぁ、アングラへのバックドアなんてものを作るには持って来いの場所だよね。
駅に程近い位置にある警察署の近くは避けて、一旦横道に折れる。
人気の少ない通りを突き当りまで進んで、大きめの道に抜けると、しばらく進んでから、また少し小さな横道へ。
周囲の人の気配を密かに警戒しつつ、その道をしばらく進んだところで、不意に現れる薄暗い裏路地に、迷うことなく入っていく。
「おぉ……なんか早くも雰囲気出てきたなぁ」
「な、なんか怖いんだけど……。いきなり変な人に襲われたりとかしないでしょうね……?」
う〜ん……まぁ、確かに、そういうような雰囲気漂う場所ではあるけどね。
実際のところ、この辺は警察署が近いこともあって、かなり治安はいいから、そんな心配は全くなかったりするんだけど……。
「しーっ、あんまり騒がない方がいいよ」
「ひっ!? や、やっぱり……」
「まぁ、ここは『まだ』平気だけどね」
「ま、『まだ』ってことは、この先は……?」
「……離れないようにちゃんとついてきてね?」
「ふぇ……」
出来ればみんなをジッパチに連れていくのは今回限りにしておきたかったから、後々勝手にここまで来ようとか考えないように釘を刺しておきたかったのと、半分はちょっとした悪戯心で、キツめに脅しをかけちゃったけど……ちょっとやりすぎたかな?
半ば涙目になった塚本さんは、九条君の腕にしがみついて離れなくなってしまった。
「な、ナオぉ……」
「ハハッ、だ〜いじょうぶだって、リナ。そんな引っ付くなよ」
まぁでも、これも三人にとってはよくあるパターンなのかな、最後尾を付いてくる小倉君は、やれやれといった調子で軽く肩を竦めただけで、特に何か言うつもりはないらしい。
まだ日は高いはずのこの時間帯でも薄暗い裏路地をしばらく進むと、不意に、左手に勝手口のような木造の扉が現れる。
この扉こそが今回の目的地であるジッパチのバックドアの1つだ。
「到着かな」
「このドアか?」
「うん。あ、開けるのはちょっと待ってて」
扉の前に一旦みんなを待たせて、僕は一人で路地を更に先へ進む。
と言っても、そんなに離れるつもりはない。
目的は、扉の少し先の右手の壁面に設置された、一見すると電気料金のメーターボックスに見える箱だ。
躊躇なく箱を開けて、内部の電力メーターに偽装されたコンソールに、いくつかの操作を加えて入力可能な状態に切り替えてから、さらに追加の操作でパスコードを入力していく。
「おぉ……すげぇ、マジモンのスパイ映画みたいになってきたじゃねぇか!」
気づいたら、九条君が僕の背後にいて、食い入るように操作の様子に見入っていた。
いつから見てたのか知らないけど、まぁ1回2回見た程度で覚えられるような操作でもないから、これは別に気にしなくてもいっか。
最後に、箱の下に左手をかざしながら、メーターの側面に隠されたスイッチを押せば、ヂッ、というノイズのような音と共に、箱から左手に何かが落ちる感触があった。
手の中を確認すると、そこには鈍く光る、一見何の変哲もない鍵の姿があった。
「なるほどな、この鍵がないと開かない仕掛けになってるってことか」
「そういうこと」
正確には、鍵はなくても開くんだけど、この鍵がないとただ単純にこのビルの勝手口として通常通りに中に入れるだけで、これ自体は本当にただの扉でしかないんだよね。
ちなみに、メーターの方は完全にこの仕掛けのためだけの偽物で、実はあのメーター自体は実体のないARオブジェクトなので、AR情報を非表示設定にするとただ何もない壁があるだけだ。
もちろん、鍵そのものも完全なARオブジェクトで、それを主張するかのように、鍵の周囲には時折ブロックノイズのような空間の歪みが走っては消えていく。
改めて扉の前に戻って、鍵をドアノブの鍵穴に差し込む。
「ふむ、随分と手慣れてるものだね」
「まぁ、実を言うと
「……それ、あまり公言はしない方がいいんじゃないかな」
「言ったのは今が初めてだよ」
ちょっとスムーズに進めすぎたかな?
今ので誤魔化せただろうか……。
ちなみに、トラッシュエリア探しが密かな趣味なのは本当だったりする。
というよりは、リアル、ネットを問わず「廃墟探索」が趣味と言っていい。
なんというか、あぁいう、長く人の手を離れて朽ち果てた場所って、そこにかつてあっただろう光景の残滓が残ってたり、植物に覆われて独特の雰囲気を持ってたり……こう、なんて言ったらいいか上手く言葉にできないけど、引き寄せられるような不思議な魅力があるよね。
まぁ、と言っても、僕は今のところ学生の身分だし、そんなに行動範囲が広いわけでもないから、リアルの廃墟はネット上での画像や再現VRデータの収集がメインで、自分で歩き回れるのは基本トラッシュエリアだけなんだけどね。
元々、最初にジッパチに迷い込んでしまった時も、トラッシュエリアを探していた途中の事故みたいなものだった。
小倉君がこの趣味を公言しない方がいいと言ったのには理由があって、実はトラッシュエリア探索ってそれ自体がかなり法律的にグレーゾーンなんだよね。
というのも、トラッシュエリアへの侵入って要するに、バグやセキュリティホールを使った空間データのバックアップやキャッシュデータへの不正侵入に当たるわけで、この時点でもうだいぶ黒寄り。
その上、内部には個人情報やらの機密情報がバックアップとして利用可能な状態で残されていたりすることもある。
明確に悪意を以て侵入して、そういう機密情報を持ち出したりというのが発覚すれば完全に犯罪行為としてアウトになってしまう。
ただ、そもそもがバグやらセキュリティホールによって偶発的に発生するものだから、通常の手段では侵入が不可能なこともあって、まずトラッシュエリアの存在そのものが誰にも気づかれていないパターンがほとんどなんだよね。
それに、その性質上、前時代のインターネットにおけるバグやセキュリティホールと同様に、全てのトラッシュエリアを根絶することは事実上不可能と言ってよくて、世界中の全ての生活圏が建物1軒単位でクラウドサーバー化されている現代社会においては、それらをいちいち取り締まっていたらキリがなくなってしまう。
更には、これも前時代のインターネットに同じく、企業が管理する商業施設なんかのサーバーなどでは、対策の一環としてそういったバグやセキュリティホールの発見に報奨金が出る制度が用意されて実際に成果をあげていたりして、むしろ積極的な探索が推奨されている例もあり、一概にトラッシュエリアへの侵入全てを悪とは言い切れない事情があるんだよね。
結果として、明確にアウトになるのは内部からの機密情報持ち出しのみで、単なる侵入だけではそもそも発覚することすらほとんどなく、仮に発覚してもお咎めなしでおしまいとなっているのが現状だ。
まぁ、お咎めはないとは言え、グレーゾーンであることに変わりはないから、あまり褒められた趣味ではないことは確かなんだけどね。
それこそ、アングラと呼ばれるまでに発展して犯罪の温床になってるような場所もあるわけだしね。
ドアノブに差し込んだ鍵を、左回りに1周と4分の1回転、そこから右に半回転戻して、鍵が真横になる位置で固定。
その状態のまま、右手で鍵を抑えて固定して、ドアノブを右、左、左、と捻った上で、「ドア」ではなく「引き戸」として開ける。
「は!? ちょ、え、今どうやった!? え、これ今引き戸みたいに開けたよな? えっ!?」
うんうん、九条君はいい反応してくれるなぁ。
もちろん、今のはレイヤード上でのARオブジェクトとしての扉に対する操作だから、実際には何の仕掛けもないただの扉がこんな風に引き戸式で開けられるわけはないし、事実、今もAR情報を非表示にしてやれば、そこには何事もなく閉じられたままの扉があるだけだろう。
「なんか、真っ暗というよりは、真っ黒で怖いんですけど……」
とは塚本さんの感想だ。
その通り、扉を開けた先に本来あるべきビルの内装はなく、まるでそこだけブラックアウトしたモニターが埋め込まれているかのような、黒一色の平面があるだけだった。
「さて、いよいよと言うわけだね」
「よっしゃ、テンション上がってきたぜぇ!」
「うぅ〜……まぁ、後はもうなるようにしかならないわよね……」
と、三者三様の反応の中、僕はこの後に待ち受ける「あるモノ」をつい思い出してしまって、思わず溜息を吐いてしまっていた。
「……はぁ〜……。うん、じゃあ、いこうか……」
「どうしたんだい?何か浮かない様子だけど」
「あー……いやね、うん、入ればわかるよ……」
小倉君に怪訝な顔をされてしまったけど、僕は深くツッコまれる前にそれだけ告げて、さっさと中へと飛び込むことにした。