note.009 SIDE:R

 ヂヂッ……ヂリリッ――
 自分の姿すら見えない、闇だけが広がる中、耳元で数回のノイズが走った後、数秒のホワイトノイズが流れる。
 それが収まると同時に、唐突に、普段通りアドレスを指定してシフトジャンプした時のような真っ白い空間に放り出されたと思うと、視界が開ける。
 辿り着いたその場所は――

「あ、あれ……? ここって……」
「ありゃ? ここ、境山の展望台じゃん。え、なんで?」

 遠堺市全域を使った大規模アングラである「遠堺パッチワークス」の内部、遠堺市の東側を南北に分断する境山、その頂上にある展望台の、南側に面した展望デッキだった。
 一見、座標バグで飛ばされたようにも見えるけど、あのバックドアは意図的にここに繋がるようになっている。
 これで正常な処理だ。

「ふむ、これはアクセス失敗……?……ではなさそうだね。ここがつまり、既にこの街の『アングラ』と言うわけかい?」
「うん、ちゃんと着いたね。ようこそ……って僕が言うのもおかしいと思うけど、ここが遠堺の『アングラ』だよ」
「ここがねぇ……。なんつーか、なんか拍子抜けだな。見た感じ、リアルと何も変わんねーように見えるけど」

 しばしの間、見慣れたはずの展望台からの、いつもとは微妙に違う景色を物珍しげに見渡していた三人だったけど、最初に違和感に気が付いたのは九条君だった。

「あん? なんか空がおかしくねぇか?」
「あ、ホントだ。普通に晴れてるように見えるけど……なんか、ところどころ空の色が少しずつ違う……?」
「あそことか、見ろよ、あそこだけ四角く切り取ってきたみたいに曇り空だぜ」
「あそこも、晴れてるけど、浮かんでる雲が変な風に真っ直ぐ切り取られてるわ。あ、見て、駅前の方は夜だよ!?」
「そうだね。なんだかモザイクアートみたいだ」

 九条君に続いて、塚本さんたちもそれぞれ見つけた違和感を言い合う。

「街の方も見てみればいいんじゃないかな」

 と、僕に促されて、三人が今度は眼下の街へと目を凝らす。

「ん? んんん? なんだ? こっからじゃよく見えねぇけど、あそこら辺、建物もおかしくね?」
「えー? どこどこ?」

 九条君は何か気が付いたみたいだけど、塚本さんは見つけられてなさそうだね。

「ふむ、ナオが見つけたところじゃないと思うけど、あそこ……」

 と、小倉君が別の1区画を指差して、

「あの辺って空き地だったかな? 普通にその隣の区画と同じような住宅街だった気がするけど」
「あ、マジだ。どうなってんだ?」

 小倉君が指差したその場所は、本来のリアルであれば普通に住宅街が立ち並ぶ居住区の一画になっている場所。
 だけど、この空間ではその場所は、区画整備の途中、家が着工する直前と言った感じの、道路で区分けされたいくつかの更地だけが広がっていた。
 そこでようやく塚本さんが、九条君が最初に気付いた違和感を見つけたようで、

「あ、わかった! あそこ! 建物が右半分しかないよ!? なんでなんで!?」
「本当だ。そうやって見ると、あちこちおかしいぞ? あそこの屋敷、あんな古めかしい感じの建物だったか? つか、よく見たらアレ、俺らがガキの頃の、1回建て替えする前のまんまじゃねぇか」
「あそこのビルも、右半分だけ鉄骨が剥き出しだ」

 そんな感じで、三人で一頻り街を眺めたところで、小倉君がこの空間のカラクリに辿り着く。

「ふむ、そうか、なるほどね。要するに、1区画ごとに適用されているデータのバージョンが全部バラバラ、ということかな」
「そうか! だから空の色も街並みも、全部ツギハギ状態ってわけだ」
「うん、だからここは、『遠堺パッチワークス』って呼ばれてるらしいよ」

 そう、これこそが、このアングラが「遠堺パッチワークス」と呼ばれる所以だ。
 元々このアングラは、それこそ地元の不良グループが自分たちの拠点にするために作った、駅前の、現在時間帯が夜で固定されている区画だけを使った、アングラとしてはありきたりな、極小規模なものに過ぎなかった。
 そこから誰が始めたのか、駅周辺の区画から拡張していく形で、その時々の住人によって好き勝手に区画が追加されていった結果、いつの間にやら市内全域を含んだ、広さだけならそこらの大規模アングラにも引けを取らない規模となり、かつ、区画ごとに拡張を実行した人物も、拡張に使ったデータもバラバラで、今はまぁ……つまるところ、さっき三人が見つけたような、街中がツギハギだらけのカオスが構築されている。

「へぇ〜。それだけ聞くと、なんだかオシャレなネーミングよね」
「そうかな……?」

 まぁ、オシャレかどうかは別にしても、的確なネーミングではあると思う。

 と、一旦話が落ち着いたところで、九条君が件の境橋に視線を移す。

「んーで、あそこが例の『黄昏の欠片』か……」

 見れば確かに、境橋の周辺だけが明らかに空間ごとオレンジ色に染まっていて、ここからでは角度的に太陽は見えないものの、橋からは東向きと西向きの両方に長く影が落ちているのが見えた。
 あの区画が、今回目指す「黄昏の欠片」――ジッパチの住人からは通称「トワイライトゾーン」と呼ばれている場所だ。
 いつ、誰が、何を思って、何故あの場所を、「向かい合う夕焼けと朝焼け」という奇妙極まる環境データで固定したのか、起源も目的も全く不明。
 しかして、単純に時間帯がそこで固定されているだけで、別に特別何かがあると言うわけではないので、現在のジッパチ住人からはほとんど見向きもされていない。

 続けて小倉君が、一度ぐるりと見える範囲の空を一通り確認してから、

「なるほど。確かに、この街の中で黄昏時になっているのはあそこだけだ」

 と、そこで九条君が別の何かに気付いたらしい。

「なぁ、アレ、あそこは何なんだ? もう6月だってのに、あそこだけ雪降ってんだけど」

 九条君が指差した先、境橋から少し北西にズレた居住区の一画だけが、重苦しい曇天に包まれて、ここからでも見える程に白く雪が舞っていた。
 あぁ、うん、あそこね……うん、気になっちゃうよね……。

「あー……あそこはねー……うん、聞いた話だから詳しくは知らないんだけど、どうも、この街で一番『ヤバい』区画らしいって」
「マジかよ……」
「うん、なんか、あそこにだけは何があっても絶対に近寄るなって、かなりキツく言われたよ」

 まぁ、もちろん今思いついた作り話で、実際何があるか……というか、誰がいるのか僕は知ってるんだけどね。
 それを今みんなに言っても特に意味はないし、多分「あの人」もそれを望んでいないと思う。

「何それ、なんかすっごい怖いんですけど……」

 塚本さんは既に九条君の上着の裾を掴んで離さない体勢だ。

「ほほぅ、それはそれで気になるな……」
「えぇ〜……やめてよナオぉ……」

 その九条君は好奇心の方が勝っているようで、塚本さんが涙目になりかけている。
 あー……うん、これはさすがに全力で止めないと……。

「やめといた方がいいよ。最悪、普通に死ぬって言われたし……」

 うん、これは誇張抜きの割と本気だ。
 あの人は怒らせると冗談でもなんでもなく殺されかねない。
 あぁ、ほら、普通に死ぬって聞いて塚本さんが完全に涙目で九条君に抱きついてガタガタ震えてる……。

「や、やめよう、ナオ……あたしまだ死にたくないよ……」
「あー……いやー……あー……ったく、しょうがねぇなぁ……」

 塚本さんに半ば泣きつかれて、ようやく九条君も諦めることにしたようだ。

「やれやれ、リナはビビりすぎだよ」
「ナオが考えなさすぎるのよ!」
「そういう君はそろそろ『好奇心猫を殺す』って言葉を覚えるべきだと思うけどね、ナオ?」
「ぐ……わ、わーってるよ! 俺だってもうガキじゃねぇし、さすがにガチで死ぬのは俺だって御免だ」

 塚本さんが半泣きになったのも効いたのか、小倉君に窘められて、バツが悪そうに反省する九条君。

 まぁ、なんとかあの人には遭遇せずに済みそうかな……。
 誰がいるのかは知ってるんだけど、正直言うとちょっとだけあの人のことは苦手なんだよねぇ……。
 嫌いと言うほどではないし、会えば普通に世間話ぐらいは交わせる程度の仲ではあるけど、特別理由がない限りは自分から会いに行こうとは思わない相手だ。

「んで? まぁ、あの雪降ってるところはヤバいとして……他の区画はどうなんだ? こっからあそこまで安全に進めるのかよ?」
「聞いた話だと、危ない人たちが集まってるのは、駅の周りの夜になってる場所で、西側の住宅区はあの雪の場所のせいで、あそこにさえ近づかなければ逆に安全なんだってさ。山を越えた北側はちょっとまた人がいるみたいだけど」
「つまり、逆に言うと、このアングラの元々の住人でさえ近づけない程、あの雪のエリアは危険、というわけだ」
「うん、そういうことだね」
「うへぇ……どんだけだよ、あの雪の場所……」

 小倉君の指摘に、さすがの九条君も若干引き気味になっていた。
 実際、ジッパチの勢力図は大体三分されていて、最初に出来た区画故に昔からの住人が多くて人口も一番多い、駅を中心とした「南」と、ジッパチ内では比較的新興の勢力が集まっていて、南の住人とは仲が悪いらしいと噂の「北」、そして、問題の雪エリアの主が実質一人で支配していて基本誰も近寄ろうとすらしない「西」に分かれている。
 ちなみに、僕の普段の活動エリアも「南」がメインなので、「北」のことは僕も詳しくは知らなかったりする。
 「南」と「北」を行き来しようと思うと、山を越えない限りは必然「西」を通らないといけないしね。
 その意味では、「西」の存在が「北」と「南」の緩衝区域みたいになってて、おかげで仲が悪いらしいとはされつつも、「北」と「南」はそれほど露骨に争っているわけではない、っていう、これはこれでなかなか微妙なパワーバランスが形成されているんだよね。
 とは言え、「西」がそもそも崩せないこともあって、現状のジッパチはアングラとしては稀に見る平穏さを保っているらしい。
 まぁ、さすがに僕もここ以外のアングラには行ったことがないから、「他と比べれば平穏らしい」っていう又聞きのレベルでしか知らないんだけどね。

「でもよ、っつーことは、あの雪の場所に近づき過ぎなければ、ちょっと住宅区を探検するぐらいなら安全ってことか?」

 あー……九条君、「西」に行くこと自体は諦めてなかったのね……。
 う〜ん……これは……どうかなー、微妙なラインかなぁ……。
 あの人がどこまで許してくれるか……。

「う〜ん……少しぐらいなら平気……じゃないかなぁ……」
「おぉ! じゃあちょっとだけ行ってみようぜ、ちょっとだけ!」
「えぇ〜……やめようよ、怖いよ」
「平気だって、要はあの雪の近くにさえ行かなきゃいいんだろ? あんなわかりやすいところ、避けて通るぐらいできんだろ」

 多分みんな気づいてないだろうけど、そもそも、あそこに雪が降ってるのは環境データの固定じゃなくて、あの人のせい(・・・・・・)なんだよねぇ……。
 でもまぁ……あの人でもさすがに警告なしで仕掛けてくるってことは多分ない……はず……。

「全く……どうしても危ない橋を渡らないと気が済まないその癖は、死んでも治らなそうだね」
「だって気になるだろ、あのツギハギのとことか更地んなってるら辺とかさ」

 小倉君は両手を広げて肩をすくめて、完全に諦めモードといった感じだ。
 しょうがないなぁ……。

「はぁ……。まぁ、ちょっと僕も完全には保証しきれないから……僕たちの誰か一人でも、ちょっとでも危ないと思ったらすぐ引き返す、っていうのだけは約束だよ?」
「了解。流石に俺だって死にたかねぇからな、引き際はわかってるつもりだぜ」
「ホントに? ホントよね!? 約束だからね!?」
「わーかってるって、リナ、ビビりすぎ」
「アンタが命知らずすぎるのよ!」

 塚本さんはまだ少し震え気味だったけど、なんだかんだで九条君から離れるつもりはないらしい。

「やれやれ……ともかく、まずはそろそろ移動しようか。とりあえずはここから降りよう。えーっと……やっぱりロープウェイが早いのかな?」

 話がまとまったところで、小倉君が辺りを見回して提案してくる。

「あー……うん、それはまぁ、そうなんだけどね……」
「……?」
「ハハ……いや、なんでもないよ。まぁ……じゃあ、行こうか……」

 あぁ……ついにこの時がきちゃったか……。
 ここに来る前の路地裏で、溜息を吐いた理由をまた思い出して、僕は思わず肩を落とす。
 うん、しょうがないよね、このルートを選んだ時点で「アレ」は避けて通れないからね……。
 がっくりと項垂れる僕に、三人は怪訝な顔をしつつ、僕たちはロープウェー乗り場へと歩き始めた。

 遠堺市の東側を南北に分断する標高200m程度の「境山」はこの街のほとんど唯一の観光資源だ。
 山脈の最西端を形成しているので、東側には山脈を形作る山々が連なる。
 頂上の南側には今僕たちがいる展望台があって、展望台へのルートとして、西側の斜面にはロープウェーと簡単なハイキングコースが整備されている。
 展望台には食事処の他に、小さいながらも天文台も併設されていて、「星空の街」を標榜するこの遠堺独特の「ちょっとした仕掛け」のおかげで、ベッドタウンの真っ只中でありながら、夜には天体観測も楽しめる。

 ロープウェー乗り場の入り口をくぐると、特にリアルと変わらない、見慣れた乗り場の光景が広がる。
 ただし、当然ながら観光客や係員などは誰もおらず、リアルであれば今この瞬間も市内唯一の観光スポットとして賑わっているはずの構内は、しんと静まり返っていた。

「あー、あー! はは、すげぇな。誰もいないから声がめっちゃ響くぜ」
「ホントだ、すごいね。人が誰もいないってだけで、こんなに違うんだ」
「こうして見ると、見慣れた光景のはずだけど……なかなかどうして、新鮮だね」

 周囲を見回しながら三人が口々に感想を言う。
 そうして一頻り眺め回したところで、改めて乗り場へと歩を進める。
 もちろん、リアルではないので切符を買う必要もない、というか券売機そのものがまず機能していないので、寄り道することなく改札口へと直行する。

「なんか、こういうのってワクワクしてくるな! ガキの頃に近所のいろんなところに忍び込んでた時を思い出すぜ」
「あー、わかるかも!」
「フフ、そうだね。そう思うと、随分と久しぶりの感覚だ」

 やっぱりみんな、そういう気持ちになるんだね。
 僕は小さい頃は大人しい子供だったから、どこかに忍び込んだりとかはしなかったけど……多分、今この場所に感じている気持ちは僕も一緒だと思う。
 この「普段見慣れたはずの光景なのに人が誰もいない」不思議な感覚とか、「入っちゃいけない場所にいる」スリルとかワクワク感が、リアルの廃墟とはまた少し違う、トラッシュエリア独特の魅力だと僕は思っている。

「うんうん、やっぱりいいものだよねぇ、トラッシュエリアって」
「あたしもちょっと楽しくなってきたかも」
「でしょ? ハマると結構楽しいよ、廃墟探索。リアルの廃墟はまた少し違うんだけどね」
「なるほど、君の趣味の一端が少し見えた気がするよ」
「ヤッベ、俺、これ始めたらハマっちゃうかもしれん……」

 なんて会話を交わしつつ、改札を抜けていよいよ乗り場のホームへと出る。
 と、最初に声を上げたのは塚本さんだった。

「えぇー!? ゴンドラがないよ!?」
「あ? マジだ、ロープは一応かかってるけど、どうすんだよこれ!?」
「はぁー……これがあるから、このルートは嫌なんだよねぇ……」

 そう、これが僕が散々溜息を吐いていた最大の理由だ。
 このジッパチの境山ロープウェーには、ロープは通されていても、肝心のゴンドラが通っていないのだ。
 本来あるべき、ゴンドラが留まるためのスペースもなく、一面平らな床の上にロープだけが一本張られている状態だ。
 これを見て、小倉君は察してくれたらしい。

「なるほど、これがさっきから君が妙に項垂れていた理由と言うわけかい? 高坂君」
「そういうこと……」
「で、その様子だと何か知っているんだろうけど、ここからどうするんだい?」
「えっとね……」

 と、僕は一旦言葉を切って、徐にホームを山頂側に上る。
 そのホームの端の壁に、無造作に立てかけられている器具の束から、四本を取り出して、みんなのところへと戻って言葉を続ける。

「あそこ、ほら、下のホーム、丸い印があるのわかる?」
「あぁ、あるな」

 僕が指差した先、斜面に沿ってざっと180mぐらい下った麓のホームは、こちらのホーム同様に乗り場全体が普通の平らな床で、代わりにロープの先を塞ぐように、弓道で使う的のような、外側から青、白、赤と三重に塗り分けられた丸い印が描かれたネットが張られていた。

「これを使ってね……」

 さっき持ってきた器具を一本ずつみんなに渡す。
 その器具は長さ2m半ぐらいの細い棒状で、一方の端にはゴンドラ用のロープに引っ掛けるためのフックが、もう一方の端には、足を乗せるための平たい棒が左右に突き出ていた。

「は? え、これって……」
「まさか……」
「嘘でしょ……」

 うん、まぁ、ここまで説明すれば、みんな大体察するよね。

「……うん、そのまさかなんだ」
「こいつでターザンみたいに滑り降りろと、そういうことか!」
「ハハ……これはまた、随分とイカれてるね」
「でも、これはこれで面白そうね」

 口ではドン引きしつつも完全にノリノリの九条君と小倉君はともかく、塚本さんも意外と乗り気だ!?
 さっきまでの感じからして、これも怖がりそうかなーと思ってたけど……案外、肝が太いね……。
 あー……いや、そうか、さっきのトラッシュエリアの話に対する反応といい、結局のところ塚本さんもこの二人と幼馴染だけあって、怖がりではあるけど、根はこういう冒険じみたことを楽しめちゃう人ってことなのかな。
 そう考えると、そうだね、本気で怖くて嫌なら、学校で話し合ってた時点で、ここまで来ること自体、自分だけパスするって選択肢も十分あったはずだ。
 それでもそうせずに、なんだかんだここまでついてきているからには……まぁ多分、九条君の存在もある程度大きい感じはするけど――それを抜きにしても、少なからず怖いもの見たさ的な部分はあるんだろうね。

「うぅ……これを楽しめるみんなが羨ましいよ」
「なんだ高坂、怖いのか?」
「うん、こういう、絶叫マシン系は苦手でね……」
「なぁに、こんなの大したことねぇよ。目ぇつぶったり、下手に下とか見るから怖いんだ。これなんかちょうど、いい『的』があるんだから、あの丸だけ見てりゃなんてこたないぜ。あとー、あれだ、怖いのを我慢しちゃダメだ。思いっきり叫んじまえ。それだけでも結構違うぞ」
「う、うん……ありがとう、九条君」

 軽く背中を叩いて励ましつつ、アドバイスをくれる九条君にお礼を言う。

「よっしゃ、どのみちこんなところでウジウジしててもしょうがねぇ、俺から行くぜ!」

 言うが早いか、九条君は上から助走をつけるつもりらしく、ホームを駆け上がっていく。
 そして、ロープの一番端にフックを引っ掛けて、そこから更にリフトを後ろに引いた状態から、勢いをつけて全力でダッシュ。

「イィィィ……ヤッホオオオオオオォォォォウ!!!」

 ホームの半分を過ぎた辺りでリフトに飛び乗って、ノリノリの雄叫びで飛び出していく。
 うわぁ……なんかもう、見てるだけで怖いんだけど……。
 そう思ったのも束の間、あっという間に麓まで滑り降りた九条君は、完璧なタイミングでリフトを飛び降りて、飛び降りる慣性で反転、背中からネットに飛び込んで、ネットの反動を使って綺麗に着地すると、こちらに向けて大きく手を振ってきた。
 一瞬遅れて、「お〜い!」と呼びかける九条君の声が届いたのと、ほぼ同時に僕たちのすぐ近くに九条君の顔を映したARウィンドウが展開された。

『はははっ! これすっげぇ楽しいぞ! お前らも早く来いよ!』
「じゃあ、次は僕が行こう」

 と、名乗りを上げたのは小倉君。
 それに、

『おう、待ってるぜ!』

 とだけ言い残して、ARウィンドウはすぐに消えた。

 小倉君も上から加速をつけるつもりのようで、落ち着いた足取りでホームを上がっていく。
 上まで着くと、九条君と同様に、勢いをつけながら、

「それじゃ、お先に失礼!」

 と、こちらも全力で加速をつけて滑り降りていく。

 うぅ……僕もそろそろ覚悟を決めないと……。
 深呼吸深呼吸……。

「高坂君、大丈夫?」
「う、うん……ごめん、もうちょっと待ってて」
「あたし、先行くね?」
「うん」

 まだ踏み出しきれない僕を尻目に、塚本さんもホームを上がっていく。
 あー……これは完全に塚本さんも加速する気だね。
 よくやるなぁ……。

「じゃ、いっくよ〜〜〜!」

 先の二人と同じく、塚本さんも一番上から全力加速でリフトに飛び乗る。

「ッキャアァァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 ……なんて悲鳴をあげてるけど、あれはどう見ても怖くて叫んでるんじゃなくて、完全に絶叫マシンでテンション上がってる時のノリだね、うん。
 っていうか、言わなかった僕も僕だし今更だけど、何で塚本さん学校の制服のまま来たのうちの制服スカートふわっふわでそんな格好でそんな全力で加速つけたら後ろがいろいろ見えちゃいけないライムグリーンだ可愛いやったー。
 ……コホン。
 し、しょうがないじゃん、見えたら見ちゃうよ僕だって男だよ!

 ……はぁ……まぁ、うん、もう誰も残ってないのに一人でわたふたしてても虚しいだけだね。
 さて、そろそろいい加減、僕も覚悟を決めよう。
 さすがにみんなみたいに上から助走をつける勇気はないので、とりあえず目の前の位置でフックを引っ掛ける。
 一応、初動の勢いをつけるために少し下がって……もう一度深呼吸。
 ……ふぅ。
 うん、よし、もう行くしかない!
 意を決して飛び乗ると、思ったよりも速い速度でリフトが滑り出す。
 ちょっ、速い速い速いって!!

「うわぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁあああああ!?」

 風を受けて必死にリフトにしがみつきながら、さっきの九条君のアドバイスを思い出そうとする。
 目はつぶらない、下も見ない、前の丸だけ見る、丸だけ見る丸だけ見る丸だけ見る……!

 時間にすれば一瞬のこと。
 だけど、この時の僕にとっては、一体どれだけの体感だったか……もはや時間の感覚自体、曖昧になっていた。
 気付いた時には、最初は目測で3cmぐらいの大きさにしか見えなかったネットの丸印は、中心の赤色だけが目の前一杯に広がっていて。

「わぁああぁぁぁあああふぎゅ!?」

 リフトがロープの端に達したことで、ガクンッと急ブレーキされて、慣性で僕の身体は思いっきり振り子運動を起こしてリフトから放り出されて、大の字になってネットに頭から突っ込む。
 必然、振り子運動の軌道のまま、下から上に抉り込むようにネットに飛び込んだ僕の身体は、そのままネットの反動によって、背中から床に放り出された。

「ふぎゃっ!?」
「お、おい、高坂!?」
「高坂君!?」
「大丈夫かい、高坂君?」
「うぅ……ん……」

 思いっきり床面に叩きつけられた僕に、すぐさま慌てた様子で三人が駆け寄ってきてくれた。
 と言っても、ここはアングラの仮想空間。
 リアルだったらこれだと、頭を打って一大事ともなりかねないけど、レイヤード、ワイヤードを問わず、基本的には仮想空間上ではこういう不慮の事故では身体は傷つかないようになっているし、痛覚もある程度は抑制されてるから、この程度は大したことでもないんだよね。
 無論、いくつか例外はあるんだけど。

「ごめんね、大丈夫。ちょっと目が回っただけ」

 軽く頭を振って、ふらつきを治めてから、九条君が差し出してくれた手を取って立ち上がる。
 ちなみにリフト本体は、手が離れた時点で消失して、自動的に元の山頂側ホームのリフトの束の中に戻るようになっているから、振り子運動で戻ってきたリフトが後頭部を……なんてことにはならないので安心だ。
 この辺は仮想空間ならではって感じだよね。

「ありがとう」
「ったく、驚かせやがるぜ」
「ごめんごめん、もう大丈夫だよ」
「よかったぁ」
「ネット上とは言え、痛覚は0じゃない。リアルの身体に直接の影響は早々ないけど、ショック症状が出ることもある。気を付けた方がいいよ」
「うん、ありがとう」

 そうなんだよね、かなり抑制されているとは言え、身体からの危険信号である痛覚を完全に切ってしまうのは問題があるということで、ネット上と言えど痛覚は完全な0にはされていない。
 だけど、これはこれで、過剰な痛覚刺激を受けると、脳が実際にそのダメージを受けたと勘違いして、リアルの身体にショック症状が出てしまうことがあるんだよね。
 ゼウスギアはあくまでも身体制御と五感の信号に割り込んでるだけで、その結果として生じる脳内物質の分泌と伝達にまで干渉できるわけじゃないからね。
 相応の刺激を受ければ、脳はそれを実際に発生したものとして受け取るし、対応して実際に反応を起こすのは結局のところリアルの身体なわけで。
 これは例外の一つとして本当に気を付けないといけないところだ。
 一応、心拍血圧だとか脳波だとかは常時監視されていて、一定の閾値を超えて異常があると判断される、もしくは、そうなると予測される程の強い感覚情報が生成されたことを検知された時には、強制ログアウトとか過剰な感覚信号のカットとかの安全策もある程度は用意されてるんだけど。

 ……そもそもにして、このルートを使わなければこんなことにはならなかったわけだけど……。
 でも、安全な場所からジッパチに潜入できて、尚且つ、可能な限り人に遭遇することなくトワイライトゾーンまで行く、という今回の目的の条件を完璧に満たしてるのはこのルートしかなかったんだよねぇ……。
 特に、「人に遭遇しない」の方が厄介で、これを満たそうと思うと、結局のところ、多少あの人との接触のリスクを取ってでも「西」を通るしかない。
 現状のジッパチの勢力図上、「北」も「南」も通らず「西」だけを通ってトワイライトゾーンまで行く、と考えると……まぁ、どうやっても、境山から西へ降るのが最適解になってしまう。

 ともあれ、これで最大の難所は無事に過ぎたかな。
 あと残る懸念は、九条君が「西」にあんまり深入りしなければいいけど……。

「とりあえず、進もうか。後はもう、境橋まで安全に行けるはずだよ」
「よっしゃ、んじゃちょっと町中の方も見て行こうぜ! あの雪の場所に近寄らなきゃいいなら、川沿いぐらいは大丈夫だろ」

 あー……一応、九条君なりに安全圏を探ろうとはしてるんだね。

「そうだね、川沿いからあんまり踏み込みすぎなければ、ちょっと見に行くぐらいはできるんじゃないかな。ただ……」
「わーってるよ、ヤバげな気配があったら即撤退、だろ?」
「うん、そこがわかってれば大丈夫、のはず」
「ホントに大丈夫かしら……」

 塚本さんはまだ不安げだけど……さっきみたいにやめようとは言わないんだよね。
 やっぱり、どこか根本的なところで、この三人は似た者同士な感じがする。

 軽く住宅区を見て回るぐらいなら、多分大丈夫だとは思うんだけどねー……。
 場合によっては、直接あの人に話をつけなきゃいけない……かも……?


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