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note.115 SIDE:N

 時刻は深夜、11時を回って――
 HXTを少し早めに切り上げてログアウトした「高坂 大樹(たいき)」ことマイスは、自身のもう一つの密かな趣味である、トラッシュエリア探索に興じていた。
 その日は、以前に見つけてから探索を続けている、遠堺市の「行政区」のほぼ全域が含まれる大型のトラッシュエリアを気の向くまま彷徨って、彼にとってはいつものように、通った道筋をマッピングしたり、気に入った場所をスクリーンショットに収めたりして過ごしていた。

 マイスにとってトラッシュエリアとは、ある種の「楽園」だった。
 法律的にはグレーゾーンであり、あまり人に言える趣味ではない。が、むしろだからこそ、誰にも邪魔されることのない「楽園」。
 少なくとも、彼自身はそう考えていた。
 そしてそれ故に、この日起こったイレギュラーは、彼にとっては全くの想定外だった。

 路地の合間の一画を、いつも通りにマッピングしながら歩いていると、不意に目の前の横道からパタパタと誰かが走ってくるような足音。
 「えっ!?」という疑問が口をついて出るより先に、勢いよく横道から角を曲がってきた足音の主と衝突する。

「きゃっ!?」
「うわっ、ごめんなさ……って、え、人!? えっ!?」

 完全に反射だけで謝ったマイスだったが、頭は完全にパニックを起こしていて、何が起こっているのか、一瞬理解ができていなかった。
 ただ、相手が自分と同年代か、少し年下に見える少女であることだけはなんとか認識できた。
 肩の少し下ぐらいまで伸びた栗色のセミロングを揺らしながら、つぶらな、という表現がしっくりくるその目に涙を浮かべて、息せき切って捲し立てる。

「ご、ごめんなさいっ! あ、じゃなくて、えっと、そのっ! こんなところで何してるんですか! あなたも早く逃げてください! 私、今追われててっ! ここにいたらあなたも巻き込まれます、早く!」
「え、えーっと……? ごめん、少し落ち着いて? いまいち話が……」

 「見えてこないんだけど」、と続けようとした台詞を掻き消して、少女が走ってきた横道の奥から鋭い男の声が響いた。

「オラァ、見つけたぞ、メスガキィ!」

 明らかに殺意を含んだ剣幕に思わず肩を震わせて横道を覗き込むと、黒いシャツにカーゴパンツ、全身にジャラジャラと金属のアクセサリーを纏った、いかにもという雰囲気の細身の男が、通路の奥をこちらに迫ってくるところだった。

「あぁ、追い付かれちゃいました! ごめんなさい! 早く逃げて!」

 事情はまだ飲み込みきれなかったが、尋常ではない男の剣幕と少女の焦りから、男に捕まるのは不味いことはすぐに察せられた。

「よくわからないけど、ひとまず逃げよう!」
「えっ!? あっ、ちょっと!? 待ってっ!?」

 咄嗟の判断で、ほとんど無意識的に少女の手を引いて、マイスは走り出す。

 横道の角を曲がった男は、それまで姿のなかった何物かが少女の手を引いていることに気づいて舌打ちする。

「……チッ、あまり表で大事にはするなっつぅ命令だったから適当なトラッシュエリアに囲い込んだっつーのに、ネズミが一匹紛れていやがった」

 予定外の事態に、唾を吐き捨てながら苛立ちを隠さない男だったが、一旦思い直して舌なめずりする。

「ヘッ、まぁいい。逃げ回るしかできねぇネズミが、一匹二匹増えたところで変わりゃしねぇ」

 呟いて、ほくそ笑んだ男は、余裕を保った足取りで少女を追うべく再び動き出した。

 ――――

 少女の手を引いたマイスは、自分が元来た路地を、出入口として使っているセキュリティホールに向けて走っていた。

「ちょっ、ちょっと! あのっ! そうじゃなくてっ!」

 引かれるままに後ろを走りながらも、少女はマイスから手を離そうと抗議する。

「待って! そうじゃないの! 追われてるのは私だから、あなたは関係なくてっ! だから、私のことは放っといて逃げてって言ったのに!」

 しかし、それでもマイスは手を離さない。

「あんな状況で、君だけあの場に置いてなんか、行けるわけないじゃないか! 大丈夫、僕は自分でここに入ってきてるから、出口も知ってるよ、ついてきて!」
「違うの、そうじゃなくてっ……きゃあっ!?」

 少女が突然、走ったままで身を屈める。
 と同時に、自分たちが走ってきた少し後ろの場所を、壁から何かが突き抜けてくる。

「うわっ!?」

 その壁を抜けてきた「何か」は路地の地面に着弾したかと思うと、小さく爆発を起こした。
 爆風に煽られて足を取られそうになるものの、なんとか立て直したマイスは、思わず後ろを確認する。
 すると、再びすぐ後ろの壁から「何か」が飛んでくる。
 それは白い光でできた球体のように見えた。
 球体の通り道になった壁の部分は、そこだけがくり貫かれたように綺麗に円形の穴を覗かせていて、球体は地面に着弾したところで爆発する。

「くっ……これって、ラクトグレイス!?」
「そうなの! だから私っ、あなたを巻き込みたくなくてっ! お願い、逃げて! このままじゃあなたも一緒に殺されちゃう!」

 ラクトグレイス――「施錠による祝福」と呼ばれる、ラクターとなってログアウト不可能になったアバターデータに時折現れる特殊能力。その力は、仮想空間故に本来「傷つく」という概念そのものが実装されていないはずのアバターデータを害することが可能で、傷ついてシステム上で認識不可能となるまで破損したデータは「削除」扱いとなり、本来想定されていないエラー情報を脳へとフィードバックしてしまうことでリアルの身体にすら危険を及ぼす――。
 ようやく、少女が自分だけを逃がそうとしていた理由を理解するマイス。
 だが――

「ハッ! 今更逃がすわけねぇだろ? このクソネズミがァ!!」

 背後で三度の爆発。
 その光弾でくり貫かれた穴から男がすぐ後ろに追いついてくる。

「ヤバい、急ごう!」

 マイスは少女の手を強く握りなおして、走る速度を上げる。

「そぅら、どこまで逃げられるかなァ?」

 男の周囲に、先ほどまでよりは幾分小さい光弾がいくつも生まれて、逃げる二人に向けて乱射される。

「っくぅ!?」
「きゃあああっ!」

 男はどうやら、二人を(もてあそ)ぶように、わざと狙いを外しているらしく、マイスと少女は右に左にと爆風に煽られながら逃げ惑うしかなかった。

「ハハハハハッ、踊れ踊れェ!」

 途中、幾度か路地を曲がって撒こうと試みるも、その度に壁をくり貫いて突き抜けてくる光弾によって、簡単に近道を作られて、すぐに追い付かれる。
 そうして、幾度目かの角を曲がったところで――

「ヤバっ、データ破損!?」
「嘘……!」

 その通路の先は、半ばから空まで含めた空間全体がブロックノイズのように分解されていて、その先はアンテナを繋げていない旧世代のテレビのような砂嵐状態の、上も下もない空間だけが続いていた。
 トラッシュエリアにはよくある、破損した空間データ。
 どうやら、光弾から逃げるのに必死になっている内に追い込まれていたらしい。

「キヒヒヒヒッ! また面白れぇぐらい綺麗にハマってくれたなぁ、オイ?」

 背後から男が下卑た笑いと共に現れる。
 マイスは、自然と少女を背後に庇って、男と対峙していた。

「なんで……どうしてそこまでしてくれるの……? 私が巻き込んじゃっただけなのに……」
「どうして……どうしてだろうね?」

 戸惑う少女の問いに、マイス自身も自問する。
 そもそも、普段のマイスはこんなに自らを犠牲にしてまで、見ず知らずの他人の危険に飛び込むような勇気ある人間ではない。
 それがどうして今、ここまで自分の身体が動いたのか、自分でも理解はできていない。
 内心は今も、できることなら今すぐ外部モニターモードに切り替えてリアルの身体に制御を戻して、ゼウスギアを外して強制ログアウトしたい気持ちで一杯だった。
 現に身体は恐怖に支配されて、膝が震えだすのを隠すことすらできていない。
 第一、何の力も持たない自分が、この状況で、ラクトグレイスを相手に一体何が出来るというのか。
 だけど、まぁ……――マイスは思う。

「だけど、まぁ、こういうのにきっと、理由なんて要らないんじゃないかな。すごく使い古された言い方だと思うけど……ただ助けたいから助ける、それでいいんだと思う」

 口にしてみて、その答えは自分でも驚くほどに、心のどこかにストンと嵌ったように思えた。
 腑に落ちる、とはこういうことかな、と、頭のどこかで冷静に考えている自分を自覚する余裕すら生まれてきていた。

「ハッ! クソネズミが、一丁前にヒーロー様気取りかよ」

 そんなマイスの態度が気に入らないといった様子で、男は上に向けた右の掌に、バスケットボール程の大きさで光弾を生み出す。

「オイ、クソネズミ。俺の目的はそこのメスガキだけだ。そこをどいたら、今ならテメェだけは見逃してやってもいいんだぜェ?」
「断る!」

 男の最後通牒に、マイスは毅然として即答した。
 その答えに、わずかに片眉を吊り上げた男は、もはや苛立ちを隠すこともしなかった。

「ハン! ならまとめて死ねェ!!」

 男が大上段から叩きつけるように投げる動作で光弾を射出するのとほぼ同時に、マイスの意識は刹那の間、引き延ばされた。

 両手を広げて、少女に向かうはずの光弾を受け止めるつもりで立ちはだかる自分の身体。
 引き延ばされた思考は、頭のどこかで「これが走馬灯とかそういうやつなのかなぁ」などと場違いにも暢気に考えていた。
 しかし突然、横から何か大きな衝撃を受けて、抵抗も出来ずに斜め後ろへと突き飛ばされる。
 尻餅をつく形で突き飛ばされたせいで、ゆっくりと下に下がっていく視界の中、今まで自分が立っていた位置に新たに立ち塞がったのは、ほんの数瞬前まで自分が守ろうとしていた少女の姿で――


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