note.117 SIDE:N
少女を背負ったマイスは、遠堺唯一の大規模アングラ「遠堺パッチワークス」――通称「ジッパチ」――の、行政区の一画にある、リアルでも歓楽街になっている雑居ビルが犇ひしめく通りに程近い裏路地を歩いていた。
アングラであるジッパチに初期から存在する、チンピラやゴロツキといった類の人間が最も集まりやすい夜間区画の中にあって尚、ほとんど人通りのない路地裏を、少女を背負った重い足取りながらも、マイスは迷うことなく進んでいく。
そうして、幾度か路地を曲がった末に辿り着いたのは、とある雑居ビルの裏手にある非常階段だった。
古ぼけた鉄骨階段を上り、3階の勝手口をノックする。
「カジマさ〜ん、いますかー?」
「おぅ、どしたぃ」
マイスの呼びかけに、通りのいい野太い男の声が答える。
一拍空けてドアが開かれると、筋骨隆々の巨体に、真っ赤なTシャツにド派手なアロハシャツ、オリーブグリーンの短パン、角張った輪郭のしゃくれた顎と、目つきの鋭い三白眼に、掘りの深い顔、根本から先端に向けて黄色から水色へとド派手にグラデーションしたモヒカンという、「古い不良漫画か何かに出てくるようなテンプレ的チンピラ」としか表現できない、強面の男が顔を覗かせた。
「カジマ」と呼ばれたこの男こそ、ラクトグレイスに関してマイスが頼れる、数少ない「伝手」の一人だった。
この雑居ビル3階に構えた事務所を拠点として、探偵と情報屋を合わせたような仕事で生計を立てている彼は、見た目こそ威圧感ある古臭いスタイルのチンピラだが、実際には情に厚いお人好しな性格で、その人柄に加えて、ジッパチに3人だけ存在するラクトグレイス能力者の1人であるが故に、ほとんどなし崩し的に、ジッパチの三大勢力圏の一つである「南」の取りまとめ役のような立ち位置についている。
マイスとは、トラッシュエリアの探索中に偶然のセキュリティホールでジッパチに迷い込んでしまったところを助けてもらって以来、度々交流を深める間柄になっている。
「マイスか、何しに……って、何だ? その後ろの嬢ちゃんは何でぃ?」
「詳しいことは中で話します。とりあえずこの子を寝かせてやってください」
「……どうもただ事じゃなさそうだな? まぁ、入れや」
「はい、ありがとうございます」
マイスの声音に何事かを察したカジマは、彼を招き入れると、扉を閉じて鍵をかけ直す。
次いで、部屋の奥の間仕切りで仕切られた個室スペースに移って、少し崩れていた窓際のベッドを簡単に整えてから、マイスを招く。
「とりあえずこんなもんでいいだろ。どれ、よこしな」
「はい」
と、背を向けたマイスから少女を抱え上げると、ベッドにゆっくりと降ろして布団をかけてやる。
そうして、改めて事務所スペースに場所を移してから、来客用のソファーに向かい合って座る。
「んで、何があった? あの嬢ちゃんは何だ?」
「それが――」
マイスは、少女と出会ってからここに来るまでを掻い摘んで説明した。
トラッシュエリアに迷い込んでいた少女が、ラクトグレイス覚醒前の段階から何者かに追われていたこと。追手に追い詰められた土壇場で少女のラクトグレイスが覚醒して命拾いしたこと。覚醒した少女のラクトグレイスが、自分の知る限りラクトグレイスとしてあまりにも異質な力であったこと。
そこまでを一通り話し終わったところで、少女が目を覚ました。
「ん……ぅ…………ふぇ……?」
見慣れない場所に、状況が呑み込めていないのだろう、身体を起こしてボーっと辺りを見回したところで、カジマと目が合い。
「ひぇやぁああぁぁぁ!? ごめんなさいごめんなさい私何もしませんからぁぁぁ!?」
「あー、スマンスマン、驚かせちまったな。別に何もしやしねぇから、落ち着いてくれ、な?」
被っていた布団をきつく掴んで、怯えきった表情で枕元の部屋の角まで必死に身を引いて縮こまる少女。
カジマは、どうどう、と抑えるように両手を広げて少女を宥めようとする。
「大丈夫だよ。確かにちょっと見た目は怖い人だけど、この人はいい人だから」
彼女の前に寄って宥めるマイスの姿を見て、どうやら助けてもらったらしいことを理解したのか、少女はこくこくと首を縦に振って、なんとか落ち着きを取り戻したようだった。
「はは、すまねぇな、目覚めたのがこんなむっさいおっさんのベッドで。まぁこの事務所じゃ他にゆっくり寝かしてやれる場所もなかったもんで、勘弁してくれや」
少しでも少女の緊張を解こうと、彼なりにできる限りの優しい声音で語りかけながら、カジマはモヒカン以外は綺麗に剃り上げられた頭の後ろを掻く。
「あ、い、いえ、その……た、助かりました、ありがとうございます……」
少女は、まだ少し怯えた様子で、か細いながらもなんとかそれだけ喉から絞り出した。
「あー……まぁ、オレの見た目が怖ぇのは……しょうがねぇ、追々慣れてもらうとして……。
とりあえずコーヒーでも飲まねぇか? あぁ、無理して起きなくていいぞ、そのままそこで座っててくれ。……あー、いや、嬢ちゃんはもっと何か甘いもんの方がいいか。
あーっとー……ちょっと待ってな。えぇっと、この辺に確かココアの粉が……あれぇ?」
来客用のマグカップを手に取ったはいいものの、コーヒー豆の瓶を掴みかけたところで、慌てて聞き直して、よくある男の一人暮らしの見本のような散らかりっぷりを見せる事務机周りを何やらごそごそと探し始めるカジマ。
強面のモヒカンがマグカップを手にわたふたするその姿が可笑しかったのか、少女はくすりと笑いを漏らした。
「ふふふっ、ありがとうございます。後で、お礼に部屋掃除でもしますね。随分と散らかってるみたいですし」
「あー、いやー……その……ナハハ、スマンな、嬢ちゃん。こんなところにおっさん独りで住んでると、どうにもサボり癖がついちまってなぁ。すまねぇが、やってくれると助かる」
と、バツが悪そうに再び頭の後ろを掻いたカジマだったが、ふとその笑みを強くして、
「しっかし、ようやく笑ったな、嬢ちゃん、ガハハッ! やっぱり年頃の女の子ってのは、そうやって笑ってんのが一番だぜ、なぁ? マイス! ガハハハハ!」
豪快に笑いながらマイスの背中をバシバシと叩く。
「ちょっ、痛た……なんでそれで僕を叩くんですかカジマさん!」
「ワハハ、スマンスマン、やりすぎたな、ガハハ!」
そんな二人のやり取りに、少女は今度こそ抑えきれないとばかりに笑い出す。
「ふふっ、あははははっ、ご、ごめんなさいっ、けどなんだか可笑しくってっ。あははははっ」
少女が初めて見せた心の底からの笑顔に、二人は一度顔を見合わせると、同じく満面の笑みを少女に返した。
「そうだ、それでいい。女の子は笑ってる顔が一番いいぜ」
「うん、そうだね。僕も、その顔の方が好きだな」
そう告げられた二人の言葉に、少女は目尻に溜まった涙を拭いながら、
「……はいっ!」
と、顔を綻ばせた。
そこで、思い出したように事務机に目を向けたカジマが探していたものに気付いて、ゴミをひっくり返す。
「おっ、あったあった。ちょっと待ってな。ココア入れてやるから」
「はいっ」
今度は少女も怯えることなくカジマに返答する。
「あ、僕ももらっていいですか? ここまで来るのにへとへとで……」
「おう、ちっと待ってろ」
少女が笑顔を見せたことでそれまでの緊張の糸が切れたのか、自分の喉もカラカラに乾いていたことを、マイスはようやく自覚する。
追加のカップとココアを用意しにカジマが事務所スペースに離れたところで、マイスの疲労の原因を察したのだろう、少女が口を開いた。
「あの、あなたがここまで運んでくれたんですよね? その、すみません、ご迷惑をおかけして……ありがとうございます」
「あ、うん、どういたしまして。そんなに気にしなくてもいいよ。僕がそうしたいと思ってやったことだし、ね」
膝を抱えて申し訳なさそうにする少女に、マイスは頬を緩めて慰めた。
「えっと、ここ、いいかな」
「あ、はい、どうぞっ」
少女の許可を得てマイスがベッドの反対端に腰掛けたところで、カジマが湯気を立てるマグカップを両手に個室スペースに戻ってくる。
たっぷりのココアを注がれたそれを受け取って、マイスと少女は二人似たような仕草で、ふーふーと息を吹きかけて冷ましてから、温度を確かめるように飲んで一息ついた。
「ふぅ……温かいものはやっぱり落ち着きますね。ありがとうございます」
「ありがとうございます、カジマさん」
「何、これぐらいはいいってことよ。まぁ、急ぐような理由も別にねぇ、慌てねぇでゆっくり飲みな」
「はいっ」
それから、カジマも椅子と一緒に自分のコップにコーヒーを入れて持って来て、しばしゆったりとした時間が流れる。
そうして、マイスと少女が飲み終えたカップを個室スペース奥にあるキッチンの洗い物置き場に放り込んだカジマは、自分の椅子に改めて座り直すと、少女を怯えさせない程度に、気持ち真面目な表情に切り替えて切り出した。
「さて、んでだ。そろそろ嬢ちゃんのことをいろいろ教えてもらいてぇんだが……話せるかい?」